坐禅和讃 甲野善紀メールマガジン「風の先、風の跡――ある武術研究者の日々の気づき」より 070-4385-1014 〒410-2211 静岡県伊豆の国市長岡991-4 受付・営業時間:8:30~22:00
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目次
【からはだふくらか】によって、全ての生命は、死ぬその時まで、快い身体で、愉しく、悦びにあふれた毎日を過ごします。
わたしは、死ぬ瞬間まで成長し続け、全ての生命から感謝を受けて、豊かな暮らしをすることができます。
ありがとうございます。
甲野善紀氏が、
江戸時代中期に活躍し、
臨済宗の中興の祖と仰がれている、
白隠慧鶴禅師(1685~1768)が広く民衆に向けて禅を説いた代表的な文章である、
『坐禅和讃』の意訳をされていますので、ご紹介したいと思います。
メーテルリンクの『青い鳥』ではないですが、この『坐禅和讃』も、仏はどこか外にいらっしゃるのでは無く、自分の中に在るのだ、と、極楽は遠い何処かにあるのではなく、今いる処が、すでに極楽なんですよ、と言います。
今歩いているのが、不幸せへの道で、あの時、選ばなかった分かれ道が、幸せへの道だった、のではありません。
幸せか、不幸せか、歩いている道はひとつだけれど、ただ、右を見ているか、左を見ているか、それだけの違いに過ぎない。
以前に現代語訳を載せたこともありますので、そちらもご参照ください。
まずは本文
甲野善紀メールマガジン「風の先、風の跡――ある武術研究者の日々の気づき」
2018年3月19日 Vol.168
03 運命との向き合い方 第2章 その3
以上
引用でした。
「世界に一つだけの花」という歌は、「そのままで在れば良い」と、歌います。
ですが、これは悪魔の囁きだ、と考えます。
私達は「本来仏」ではあるけれど、今はその仏性が隠れた状態にあります。
だから、その「本来」という理想に向かって、進んでいかなければならない、というのが本当だと思うのです。
ところが、この歌は、「本来」を探し出すことは必要無い、と歌っている。
つまり、仏になること、理想を追い求めることを阻止しているわけですね。
その場から動くな、その場で咲け、と言う。
これは、古くは士農工商とか、インドのカーストなど、身分を区切り、分相応にしていろ、という言葉です。
富める者は、より富み、貧する者は、より貧していけば良い、と言っているに等しい。
二極化を肯定し、自分の今の境遇を受け容れ、死んでいけ、と言っているわけです。
それが大ヒットし、ダブルミリオン、トリプルミリオンになっているということは、皆さんは、自分の境遇をそのまま受け容れることを、意識的にせよ、無意識にせよ、是としている、ということになります。
この歌は2002年アルバム曲として、2003年にシングルカットされました。
また、2012年には『置かれた場所で咲きなさい』という本が、話題になりました。
読んでませんので、内容については分かりません。
その上で、この一語だけについての感想になりますので、ご容赦ください。
この一語から感じるのは『世界に一つだけの花』と同じものです。
有名ブロガーの、イケダハヤトさんも、同様の印象を持たれているようです。
『「置かれた場所で咲きなさい」?それ、過労死する考え方ですよ』
『愛は勝つ』、『それが大事』とこの『世界に一つだけの花』は、日本の3大悪ソングだと、私は思っているんですが、2016年に、SMAPのゴタゴタと共に、再ヒットします。
繰り返し、この思想が植えつけられている、もしくは、選びとっているのだ、という印象を受けました。
そうじゃないんだよな~。
エクレールさんという方も、このイケダハヤトさんのブログを取り上げ、その中でこういう言葉を教えてくださっています。
『置かれた場所で咲きなさい?いいえ、逃げてもいいんだよ』
野口晴哉は、
「生きているのは、生まれたからだ。生まれたことに意味など無い。
ただ全力で生きれば良い。」
と言います。
そして全力で生きる為には、やりたいことを、やりたいときに、やりたいようにやる、以外に方法は無いのですよ。
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