坐禅和讃 甲野善紀メールマガジン「風の先、風の跡――ある武術研究者の日々の気づき」より

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坐禅和讃 甲野善紀メールマガジン「風の先、風の跡――ある武術研究者の日々の気づき」より

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2018/07/11 坐禅和讃 甲野善紀メールマガジン「風の先、風の跡――ある武術研究者の日々の気づき」より

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目次

 

  • ・坐禅和讃本文と甲野善紀氏による解説

    甲野善紀メールマガジン「風の先、風の跡――ある武術研究者の日々の気づき」

    2018年3月19日 Vol.168

  • ・03 運命との向き合い方 第2章 その3

 

 

【からはだふくらか】によって、全ての生命は、死ぬその時まで、快い身体で、愉しく、悦びにあふれた毎日を過ごします。 

わたしは、死ぬ瞬間まで成長し続け、全ての生命から感謝を受けて、豊かな暮らしをすることができます。

ありがとうございます。

甲野善紀氏が、

江戸時代中期に活躍し、

臨済宗の中興の祖と仰がれている、

白隠慧鶴禅師(1685~1768)が広く民衆に向けて禅を説いた代表的な文章である、

『坐禅和讃』の意訳をされていますので、ご紹介したいと思います。

 

 

メーテルリンクの『青い鳥』ではないですが、この『坐禅和讃』も、仏はどこか外にいらっしゃるのでは無く、自分の中に在るのだ、と、極楽は遠い何処かにあるのではなく、今いる処が、すでに極楽なんですよ、と言います。

 

今歩いているのが、不幸せへの道で、あの時、選ばなかった分かれ道が、幸せへの道だった、のではありません。

 

幸せか、不幸せか、歩いている道はひとつだけれど、ただ、右を見ているか、左を見ているか、それだけの違いに過ぎない。

 

 

以前に現代語訳を載せたこともありますので、そちらもご参照ください。

 

白隠禅師 坐禅和讃 南紀白浜・聖福寺のホームページより

 

まずは本文

 

衆生本來佛なり     しゅじょう ほんらい ほとけなり
水と氷のごとくにて   みずと こおりの ごとくにて
水をはなれて氷なく   みずを はなれて こおりなく
衆生の外に佛なし    しゅじょうの ほかに ほとけなし
衆生近きを不知して   しゅじょう ちかきを しらずして
遠く求るはかなさよ   とおく もとむる はかなさよ
譬ば水の中に居て    たとえば みずの なかにいて
渇を叫がごとくなり   かつを さけぶが ごとくなり
長者の家の子となりて  ちょうじゃの いえのことなりて
貧里に迷ふに異ならず  ひんりに まように ことならず
六趣輪廻の因縁は    ろくしゅ りんねの いんねんは
己が愚痴の闇路なり   おのれが ぐちの やみじなり
闇路にやみぢを踏そへて やみじに やみじを ふみそえて
いつか生死をはなるべき いつか しょうじを はなるべき
夫れ摩訶衍の禪定は   それ まかえんの ぜんじょうは
稱歎するに餘りあり   しょうたんするに あまりあり
布施や持戒の諸波羅蜜  ふせや じかいの しょはらみつ
念佛懺悔修行等     ねんぶつ ざんげ しゅぎょう とう
其品多き諸善行     そのしな おおき しょぜんぎょう
皆この中に歸するなり  みな このうちに きするなり
一座の功をなす人も   いちざの こうを なすひとも
積し無量の罪ほろぶ   つみし むりょうの つみ ほろぶ
惡趣いづくにありぬべき あくしゅ いづくに ありぬべき
淨土即ち遠からず    じょうど すなわち とおからず
辱くも此の法を     かたじけなくも この のりを
一たび耳にふるる時   ひとたび みみに ふるるとき
さんたん隨喜する人は  さんたん ずいき するひとは
福を得る事限りなし   ふくを うること かぎりなし
いはんや自ら回向して  いわんや みずから えこうして
直に自性を證すれば   じきに じしょうを しょうずれば
自性即ち無性にて    じしょう すなわち むしょうにて
すでに戯論を離れたり  すでに けろんを はなれたり
因果一如の門ひらけ   いんが いちにょの もんひらけ
無二無三の道直し    むにむさんの みちなおし
無相の相を相として   むそうの そうを そうとして
行も歸るも餘所ならず  いくも かえるも よそならず
無念の念を念として   むねんの ねんを ねんとして
謠ふも舞ふも法の聲   うたうも まうも のりのこえ
三昧無碍の空ひろく   ざんまい むげの そらひろく
四智圓明の月さえん   しちえんみょうの つきさえん
此時何をか求むべき   このとき なにをか もとむべき
寂滅現前するゆへに   じゃくめつ げんぜん するゆえに
當所即ち蓮華國     とうしょ すなわち れんげこく
此身即ち佛なり     このみ すなわち ほとけなり

 

 

甲野善紀メールマガジン「風の先、風の跡――ある武術研究者の日々の気づき」

2018年3月19日 Vol.168

 

03 運命との向き合い方 第2章 その3

 

まず冒頭にある衆生(しゅじょう)とは武士も農民も商人も含めたすべての人間のことである。

 

その「ごく普通の人間は本来仏なのだ」という書き出しで、この「坐禅和讃」は始まっている。

 

そして、ごく普通の人間と、理想の存在である仏は、一見隔絶して見えるが、ちょうど「氷と水のようなものである」という例えが出てくる。

 

いま「水と氷」ではなく「氷と水」と書いたのは、衆生が「氷」で、仏が「水」という例えだと思えるからである。

 

冷たく硬く、自在な対応が出来ない氷が溶ければ、老子も「上善水の如し」と、その善なる存在の理想として挙げている水となる。

 

氷と水は、その状態が違うだけで本質的には同じものである。

 

したがって「水を離れて氷なく、衆生の外に仏なし」とは、自我の損得の妄念に捉われている衆生の心が溶ければ仏になるということだろう。

 

つまり、理想の存在はすでに備わっているのに、衆生はそれを知らずに遠くに理想を求めたがるとは浅はかなことだ。

 

これはまるで「水の中に居るのに『喉が渇いた」と水を求めたり、裕福な家の子であるのに、その家から迷い出て、貧困な生活を送っているようなものだ」と、巧みな例えを出して説いている。

 

六趣、つまり衆生がその業で行くとされている地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天の六道の世界を「輪廻」つまり生まれ変わり死に変わりして迷い続ける。

 

その元である因縁は自分の愚痴、つまり利己的な自分の執着心や物欲に心が絡めとられているからである」と、白隠は説いている。

 

そして、そういう利己的な執念をますます増やしていったら、一体いつ自分が生まれて死ぬというこの存在の意味を悟ることが出来るだろうかと、その問題点を指摘し、そこから一気に自らが自信を持って勧められる禅の世界のすばらしさの解説へと入っている。

 

まず「摩訶衍の禅定」という言い方で、大乗仏教としての禅は「稱歎するに余りあり」、その素晴らしさは口で言い表せないと説き、布施や持戒、

つまり戒律を守ること、耐え忍ぶ忍辱、精進、禅定、智慧などの六波羅蜜、さらに念仏や懺悔などの修行による多くのさまざまな善行は、どれもそうした自分への利己的執着から離れるための方法であると解説している。

 

そして、やはり禅宗だからだろう、「一坐の功」つまり、ただ一度座っただけの人であっても過去に犯した多くの罪が消えていくと説いている。

 

この辺は「悪人といえども『南無阿弥陀仏』と称えれば阿弥陀如来の本願によって救われる」と説いている浄土系の考え方が影響を与えていると思う。

 

そして罪が消えていけば「悪趣、つまり六趣などは、もうどこにもなく、浄土は目前だ」と、この和讃を読む人、聞く人を励ましている。

 

そして、これに続けて、このように有難い「この法」つまり大乗仏教の教えを一度耳にして感嘆し、随喜する人は、少なからぬ福(ここでいう福とは物質的な物や金銭ではなく、幸福感の福であろう)を得ることが出来るだろう。

 

そして、さらに自ら進んで坐禅修行して直接自分で見性し、本来の心性を見極めれば、その見性は本来何もない空であることがわかり、様々なつまらない悩みから離れることが出来る。

 

そうなれば因果が一つであり、仏と自分が一体であるという大乗の門が開き、真実の道が真直ぐに通っている。

 

この無の相を身に帯びたならば、どこに行こうとどうやって帰ってこようと、それは真理から外れることはない。

 

広々として清々しい、余計な悩みのない思いを体得すれば、歌っても舞っても、もちろん日常の様々な行動も、すべて真実の教えであり在り方である。

 

その我ならざる我と一体化した世界は、大空が広く爽やかで、そこには悟境として得られる大円鏡智(万物を平等に把握できる智)、平等性智(自他の平等を明らかにする智)、妙観察智(各自の特性をよく把握できる智)、成所作智(さまざまなことを完成へと導く智)の四つの智慧、すなわち四智が円い満月のように冴え冴えと光り輝いている。

 

ここに到った時、人はいったいこれ以上何を求めるだろうか。

 

「寂滅」すなわち多くの煩悩が滅し、静かな涅槃(ねはん)の境地が出現しているのであるから、現世で生きているこの場所が、すなわち「蓮華国」つまり極楽浄土であり、この自分が仏であることが実感できることだろう。

 

このように白隠禅師は庶民に向けた文章ということもあってだろうが、明解に坐禅の功徳をこの「坐禅和讃」で説いている。

 

以上

引用でした。

 

 

「世界に一つだけの花」という歌は、「そのままで在れば良い」と、歌います。

 

ですが、これは悪魔の囁きだ、と考えます。

 

私達は「本来仏」ではあるけれど、今はその仏性が隠れた状態にあります。

 

だから、その「本来」という理想に向かって、進んでいかなければならない、というのが本当だと思うのです。

 

ところが、この歌は、「本来」を探し出すことは必要無い、と歌っている。

 

つまり、仏になること、理想を追い求めることを阻止しているわけですね。

 

 

その場から動くな、その場で咲け、と言う。

 

これは、古くは士農工商とか、インドのカーストなど、身分を区切り、分相応にしていろ、という言葉です。

 

富める者は、より富み、貧する者は、より貧していけば良い、と言っているに等しい。

 

二極化を肯定し、自分の今の境遇を受け容れ、死んでいけ、と言っているわけです。

 

 

それが大ヒットし、ダブルミリオン、トリプルミリオンになっているということは、皆さんは、自分の境遇をそのまま受け容れることを、意識的にせよ、無意識にせよ、是としている、ということになります。

 

 

この歌は2002年アルバム曲として、2003年にシングルカットされました。

 

また、2012年には『置かれた場所で咲きなさい』という本が、話題になりました。

 

 

読んでませんので、内容については分かりません。

 

その上で、この一語だけについての感想になりますので、ご容赦ください。

 

この一語から感じるのは『世界に一つだけの花』と同じものです。

 

 

有名ブロガーの、イケダハヤトさんも、同様の印象を持たれているようです。

 

 

「置かれた場所で咲きなさい」?それ、過労死する考え方ですよ

 

「置かれた場所で咲きなさい」というのは、かなりの度合いで「恵まれた」人にしか「言ってはいけない」言葉です。
弱った人、追い詰められた人にとっては、死に追いやられる可能性のある言葉です。

 

厳しくいえば、「置かれた」という受け身表現を使っている時点で、あなたは人生の当事者にはなれません。

あなたの人生は、あなたが決めるんですよ。

 

自分で納得して「置かれた場所で”私”は咲こうと思う」と決意するだけなら無害です。
が、ひとたび他人に対して「お前は、置かれた場所で咲く努力をしろ!」と偉そうに説教するようになると、大きな害悪になります。

 

『愛は勝つ』、『それが大事』とこの『世界に一つだけの花』は、日本の3大悪ソングだと、私は思っているんですが、2016年に、SMAPのゴタゴタと共に、再ヒットします。

 

繰り返し、この思想が植えつけられている、もしくは、選びとっているのだ、という印象を受けました。

 

そうじゃないんだよな~。

 

エクレールさんという方も、このイケダハヤトさんのブログを取り上げ、その中でこういう言葉を教えてくださっています。

 

魔女のクレドにこんな言葉があります。
An it harm none,do what ye will.

 

これは古語で現代英語では
If it harms none,do what you will.
”誰も害することのない限り汝の望むことを為せ”
となります。

 

「他人に迷惑をかけなければ何をしてもいい」
と解釈する人がいるのですが
「自分にとっての「真の意思」が何かを知った上で、自由であれ」
というのが本来の意味です。

 

『置かれた場所で咲きなさい?いいえ、逃げてもいいんだよ』

置かれた場所で咲きなさい?いいえ、逃げてもいいんだよ

 

野口晴哉は、

 

「生きているのは、生まれたからだ。生まれたことに意味など無い。

 ただ全力で生きれば良い。」

 

と言います。

 

そして全力で生きる為には、やりたいことを、やりたいときに、やりたいようにやる、以外に方法は無いのですよ。

 

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